+ 此れはこの世のことならず +


衣領樹えりょうじゅが見えた!」
「ん? ああ、そうだな」
 一本の貧相な背の高い木が立っている。その貧相な木の枝にはたくさん、たくさん、服がかけてある。
「あっ、おい!」
 そう呼びかける声を気にもせず走り寄って行くと、まるで洗濯物を干すように濡れた服を木の枝にかけている爺さんがいた。
懸衣爺けんねおう!」
 声に気付いた爺さんがほとこっちを振り向いて、頭を下げてから手を合わせる。
 痩せた姿の爺さんだ。肉のない骨骨した体と、ぎょろぎょろとした目玉が目立ちすぎていて、若干怖い。上で暮らしていたら、きっと子どもに鬼爺さん! とかあだ名つけられてしまいそうな感じだ。
「久しぶりだな、爺さん」
「息災でしたか、蓮珠れんしゅ様」
 皺だらけの顔を笑顔で覆うと、人の良い爺さんに見える。これなら子どもにも鬼爺さんだとか言われないだろ、きっと。人間笑顔って大切だよなー。うんうん。
「元気だったぞ」
「元気すぎて困る程になあ」
 たかむーがおれの後ろからにょっと出てきた。お、と思ったら俺の頭にまた拳が落ちてきた。懸衣爺がさっと後ろに下がって頭を下げる。俺とはちょっとした違い。
「だから痛いって。何で殴るんだよ」
 頭を押さえていたら、たかむーが馬鹿が、と呟いたかと思うと、
「私は貴様の案内のためにわざわざ仕事の時間を割いてきているのだぞ!」
 かっと目が見開いた。俺は驚いて懸衣爺にひしと抱きついてしまった。懸衣爺はおやおやと驚きつつも俺の背中を叩いてくれる。優しいお爺ちゃんだ。ちゃんと老人は大切にしないといけないな。
「だというのに、貴様が先に歩いてどうする! このうつけ者が!」
 ひゃー……宋帝王んとこの蛇よりもおっかないや。
「私の後ろにいろ、迷っても知らんぞ」
「いやいや、流石に一尺くらいじゃあ迷わないから、俺」
 手を横に振ったらたかむーがむ、という顔をした。
「分かった、分かった。三歩下がって斜め後ろでちゃんと歩いておきますから」
 そう言うと、やっとたかむーが無表情に戻った。まったく、面倒臭い奴だ。
「そんじゃあ、俺もう行くな」
「はい。お顔を見せてくだすってありがとうございました、蓮珠様」
 頭を下げる爺さんに別れの挨拶の代わりに手を振ろうとしたら、
「爺さっ、今日は大量じゃけなあ!」
 両手満杯に服を抱えた婆さんがよっちらおっちらと走ってきた。
「こんなにええべべが取れたでのぉ」
 けっけと一本前歯が抜けた口を開いて笑う婆さん。後ろでぐしゃぐしゃにまとめた白い髪の中の黒が眩く見える。
懸衣嫗けんねう、相変わらずだな」
「おおっ、お久しぶりでございます、お二方」
 俺が笑いかけたら婆さんはうっとりとした目で俺を見つめ返してきた。この婆さんは別に俺に見とれているわけじゃない。
「蓮珠様、その着物ええ色ですのぅ」
「見るだけにしてくれよ、懸衣嫗」
 赤の地に黒で川と鬼を描いて、金と銀で細かい花を描いあって、ちょっと派手。だけど肌触りが最高の着物は俺のお気に入りだ。それにこの婆さんは魅入っている。
「貴様の服はけばけばしい」
 とかたかむーが言うけど気にしない。ちょっと心臓に針を打たれた感じがするけど、いいんだ。我慢する。
「ちっと、ちぃっとだけでええんで触らせてくだしゃんせ」
 婆さんが手の平を擦り合わせて、曲がった腰をさらに曲げるのを見て、心優しい俺は仕方なく頷いた。
「ちょっとだけだぞ」
「なんとありがてえ。爺、触れ! こんなええの触らせてもらえんのなんか、滅多にねえぞ」
 婆さんが爺さんの腕をぐいぐいと引張るけど、爺さんは首を振っているだけ。
「そんな恐れ多いこと、わしには出来ん」
「けっ、意気地のない男じゃのう! 蓮珠様、わては触らせて貰うでなっ」
 ひひひと薄気味悪い笑い声を立てながら婆さんが俺の着物に手をつける。すると、動きがぴたりと止まった。
「おお」
「おう」
 べたべたと婆さんが俺の着物を触りたくる。すっごく嬉しそうな顔をしているな、婆さん。
「おおおおおお……!」
「ふおおおお」
 すっごく嬉しそうだから言えないけど、頬ずりするのだけはやめてくれ!
「おい、そろそろ離してやれ」
 たかむーがそういうと婆さんが頬を離した。おお、さっすがたかむー。
「蓮珠様、ありがとうございやした」
 婆さんが手を合わせて頭を下げた。いやいや、満足してもらえたみたいで良かったよ。俺はちょっと疲れたけど。精神が。
「懸衣嫗は本当に服が好きだな」
「へえ、こんな婆でも綺麗なべべは好きでさぁ」
 三途の川のこっち側には、懸衣爺と懸衣嫗の二人がいる。
 今はどうか知らないけどさ、昔は死体から着物を剥ぎ取る隠亡おんぼうがいたんだよ。え、隠亡って何か分からないって? えっとな、あれだ! 羅生門とか読まされたことないか? あれに出てくる婆さんだよ。あの人が、隠亡だ。その隠亡は懸衣追婆から出来たんじゃないかって噂なんだよな。
 懸衣嫗は歩いて来た死者から衣類を奪う役目を持ってて、懸衣爺は懸衣嫗が奪ってきた衣類を傍らの衣領樹の枝にかける役目を持っているんだ。
 そんなことして何になるのかって? ただの悪戯? 嫌がらせ?  ううん、違う。そんなもんじゃない。死者を苛めるつもりで二人はこんな面倒臭いことをしてくれているわけじゃない。これは、大切な審判の一つの手伝いをしているだけなんだ。
 衣領樹は枝にかけられた服によって、枝の垂れ下がり方が違う。持ち主の生前の罪の重さの軽重に応じて変わるんだ。
 それを見て、さっき俺とたかむーが横を通ってきた庁の裁判長の初江王が結果を決める。
 なっ、この二人は偉いだろ、役に立っているだろ。俺なんかと違って仕事熱心だろー。俺の自慢の同僚なんだぞ! まあ、懸衣嫗は仕事のためだけじゃない気がするけどさ。服がよっぽど好きなんだろうなー、きっと。
「じゃあ、また帰ってきた時にでもなー」
 今度こそ別れの挨拶をしたら、
「行ってらっしゃいませ」
 って深々と懸衣爺が頭を下げてくれた。懸衣嫗は俺の前らへんを濡れ鼠になって歩いてきた死者に飛びついて、服を引っぺがしていたけど。三途の川にかかっている橋の元まで来たら、腰巻をした子どもほどの身長しかない一本角の鬼が俺たちに気付いてこっちを向いた。
「たかむー、どうする?」
「どうするも何も、ここを通るしかなかろう」
「しゃーねえなあ」
 そんなことを話している間に鬼は俺たちの前にやって来た。鬼だけど、子どもなのか、小さくて顔もまだそんなに怖くないから、これなら俺だって見てられる。
「たかむー、持っているか?」
「なぜ私が出さねばならんのだ。貴様が出せ!」
 俺が試しに訊いてみたらたかむーがぎろっと鋭い目で睨んできた。
「仕方ない……」
 小さいくせして金棒を振り回して来る鬼を正面に見つめながら俺は懐に手を入れた。
「必殺!」
 ぎゅりっと手に握ったものに力を込める。
「痛いのも泳ぐのも嫌だからこれで許してちょうだい六文銭特別スペシャル攻撃アターック!」
 ばっと六文銭を鬼の向こうに放り投げると、小鬼はでけでけとそれを追っていく。
「よし、行くぞたかむー!」
「貴様、私の分は払ったんだろうな」
「俺とお前は一心同体だから一人分でいーんだよっ」
 俺の方を不審そうに見るたかむーの背中を押して走り出す。ゆるく円を描いた木の橋は古くて、ひいひいと悲鳴を上げる。
「見張りお疲れ様でーすっ」
 明るく敬礼して言うと、小鬼はちょろりと横目で俺たちを見た。
 俺はさらに強くたかむーの背中を押して、橋の真ん中辺りまで行った。下には冥土を流れる、三途の川がある。何でこの川が冥土川とか、亡者川みたいな微妙な名前じゃなくって、三途の川って名前をつけられたか知っているか? 三途の川を渡るには、三つの途(みち)があるから、そう呼ばれるようになったんだ。
 一つ目は、今俺とたかむーが渡ろうとしている橋、『有橋渡うきょうと』。此処は誰でも渡れるわけじゃない。善人だけしか渡れないんだ。二つ目は、この橋の下にある川の中を泳いでいく、『山水瀬さんすいらい』。三つ目は、この橋の下にある川の中を泳いでいく、『江深淵こうしんえん』。『山水瀬』と同じで川の中だけど、深さが違うんだ。特に罪の重い奴が渡る途に当たる。
「待て」
 がしっと俺の髪の毛を小鬼が掴んだ。
「痛っ、何だよ」
「これ、一人分。だけどお前ら二人。一人分足りない」
 小鬼が手の平の銭をきゅーっとした目で見てから、また俺を見る。うっ、ちょっと可愛いじゃないかよっ。
「払ってやれ」
 どんっとたかむーに肩を叩かれて、俺はため息をつきながら懐に手をやった。お前のために払うんじゃないから、その態度はやめろってーの。なんか嫌な気分になるからさ。
「ほら、もう一人分」
 右手で小鬼の手をとって、手の平にもう一人分の代金――六文――を置いて左手で握らせてやる。
「悪かったな」
 って言ったら小鬼はぱあっと笑った。なんだ、やっぱり子どもは子どもか。鬼でも子どもはすんっげえ可愛いな。
 子どもの笑顔って最強の武器だよな。子どもの笑顔と動物が一緒にいただけで戦争でも何でも止められちゃいそうだよ。
「だから言っただろうが。私の分は払ったかと」
「はいはい、すみませーんねっ」
「これからは人の話をちゃんと聞け、いいな」
「はいはい、分かりましたーよ」
 たかむーは全然これっぽっちも可愛くない。たとえ子どもになったとしてもな。

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