+ 此れはこの世のことならず +


「ところで、どこまで進むつもりだなんだ? まだ上に続く所には出ないのか?」
「もう少しだ」
「もう少しって……まさか山に登る気じゃないだろうな?」
 眼前に迫ってきた死出の山を見上げた俺が言った。
「すそ野を八百里も歩くのか? 時間の無駄じゃないか」
 やれやれ、出口求めて三千里ってか。心の中でため息を吐いている俺を横目で見て、たかむーはまた鼻で笑った。
「そんな時間の無駄なことをこの私がするか」
 貴様ではあるまいし、と呟かれたのに若干かちんとなる。
「じゃあどうするんだ」
「うるさい、黙って私についてこい」
 ふつふつと湧く怒りをなだめながら砂利道を歩き続ける。
「止まれ」
「お、っと」
 今度は衝突せずにすんだ。
「泰広王の庁だ」
 死者が一番初めに訪れる地獄の法廷、七日目に来る泰広王の庁だ。
 なんと驚き! この庁には亡者は入れないんだ。ならどうやって審査をするかって? それは簡単、書類審査さ。泰広王は書類審査だけで死者を裁くんだ。
 いやー、まいった! 受験と就職活動が終って、もう書類審査なんてない、内申点を気にしなくてもいいんだ! と思ったら大間違い、究極の書類審査が君たちを待っている。人生の内申点なんてどうやったら上がるのかなんて、誰にも分からないよな。だから、俺は閻魔王よりも泰広王の審査の方が怖いと思うんだよなー。
「蓮珠」
 頭を下げて素早く立ち去ろうとしていた俺の背中に深みのある良い男の声が飛んできた。
「頼んだぞ」
 ふぅっと息を吐く。
「了解した、泰広王」
 まあ、いつだってお偉いさんと話すのは疲れるものだよな。
「行こう」
 俺から五歩ほど離れて見てたたかむーの肩をぽんっと叩く。
 だけどたかむーは、
「あ、ああ……」
 と歯切れが悪い。
「どうしたんだ?」
 俺が訊いたらたかむーは曇らせた顔を上げた。
「本当に行くのか?」
「行くしかないだろう」
 と言うとさらに表情を曇らせた。……仕方のない奴だなあ。
「行かなかったらどうなるか! 俺の命がかかっているんだぞ!」
 ぶるぶる震えながら言ったら、たかむーがぷっと小さく吹き出した。
「本当に、貴様という奴は」
 くすくすと笑うたかむーを驚いて見ていた俺と、その細められた目と俺の目が合った瞬間、それが別の意味で細められる。
「馬鹿言っとらんでついてこい」
 俺にそんなことを言わせたのはたかむーのくせに。ちぇっ、まーいーですけどぉー。
 ぐんぐん進んでいくたかむーを見失わないように、俺はその後を追っていく。秦広王様の庁を横切って、庁の裏へと足を進めていく。こんな所に何かあるのか?
「ここだ」
 庁の裏手、草の川を泳いで行った所にそれはあった。古い、明らかに使われていないだろう、井戸が。
「この井戸が、上へと繋がっている」
 たかむーは静かに井戸へ寄り、ふちに腰かけた。埃が積もったそれに、何のためらいもなく手を触れ、撫でる。思うところがあるんだろう。俺に言えないことがあるように、彼にも口に出せない叫びがあるんだろう。俺は、何も口に出さなかったし、動きもしなかった。
「本当に行くのか」
「あ? ……しつこいな。行くよ」
 なるべく邪険にするように、ぶっきらぼうに言ったらたかむーは俺の顔をじっと見つめてきた。困った、俺はこういう時の人の目が一番苦手なんだ。
「人間が、いるんだぞ」
 生きた人がいる。それも、たくさん。それを想像した瞬間、ぞっとした。体の芯から冷えていく。けれども、
「それでも、俺は行く。いつまでも放っておくわけにはいかないからな」
 自分でもくしゃくしゃだってことは分かってはいたけど、それでも笑わずに、強がりを、ほんの少しの余裕を使わずにはいられなかった。
「それに、お前だって人間じゃないか」
 それだけ言うと俺は体ごと避けた。一瞬の静けさもいらない。すぐに俺が口を開いた。
「どうやって行くんだ」
「この中に飛び込めばいい」
「それだけか?」
 井戸に飛び込むって。これ以上下に行ってどうするんだよ。だからって未確認飛行物体UFOに連れて行かれる人みたいにうぉんうぉん音を立てながら光の道を直立で昇っていくのもちょっと嫌だけどさ。
「そうだ」
「なら、もう行くぞ」
 井戸に足をかけた状態で隣に腰掛けたままのたかむーを見下ろすと、たかむーは俺から目をそらして、
「勝手にしろ」
「案内してくれてありがとう」
 折角許可を頂いたのだから、そうさせてもらうことにする。井戸にかけた足に力を込め、上半身を乗り出し、井戸の中に入り込む。
「私はもう、貴様と同じ地獄の者だ」
 人という短い時を歩んだことはあったがな、とたかむーが笑うのに、俺は笑うことができなかった。
「行ってくる」

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