弐
弐
男は逃げていた。無我夢中になって逃げていた。朝、会社に行く前に整髪料で後ろに撫で付けてきた髪の毛はぐちゃぐちゃになり、えくぼの可愛い妻が結んでくれたネクタイは結び目がゆるゆるになっており、今にも解けそうな状態だ。すでに息は絶え絶え、体も重くて仕方がない。だが、それでも彼は走り続ける。
「ち……っくしょー」
ぜえぜえひいひいと体が悲鳴をあげる。ぎしりぎしりと体が泣き声をあげる。酔ったスーツを着たサラリーマンと肩がぶつかったが、気にしていられず、走り続ける。無我夢中だからか、いつの間にか男は人を掻き分けて走ってしまっていた。耳元や背後で怒りの混じった声が上がり、すまないとは思いはする。それをすまないとしか思えないほど、男は焦っていた。
「優子に、今日は早……帰るって」
それでも彼は走らなければいけなかった。それでも彼は走りたいと心から願っていた。帰りたい場所が、彼にはあるから。
「約束、したんだよ!」
***
少年は走っていた。俊敏に、獲物を追う獣のように走っていた。
随分長い間走っているというのに、少年の呼吸は少しも乱れてはいなかった。先を走って逃げている獲物を捕捉しようとする目はギラギラと刃のような灰色の光を込めており、顔は不気味な笑みに支配されてしまっている。
少年はどこにでもいるような姿をしていた。赤のつるつるとしたジャンパーの下にオレンジ色のパーカー、チェーンをジャラジャラと付けているズボン、足にはバスケットシューズを履いていた。
だが、髪の色だけを見ると少年は多くの人から不良、と呼ばれる類の者であった。金に染めた髪は襟足をだらりと伸ばし、前髪の一部だけに赤のメッシュを入れていた。だんだん男との距離が狭まってきたのに、少年は唇を舐めた後、歪ませた。
「約っ束、したんだよ!」
男がそう血を吐くように叫んだのに、少年の体はピクリと小さく反応した。何か約束しているのか、とは頭の奥で思ったが、すぐにそんな思いは掻き消えた。この男が誰とどんな約束をしていたとしても、この行為とは関係がないのだから。
少年は一気に間合いを狭め、男の無防備な背中に切りつける。
「ひぃ……っ!」
咄嗟にしゃがみこんで刃を避けた男の背から微量の血が出たのに少年は目を細めた。返り血がつかないように慎重に避けなければいけない。人の血に触れたら、身が穢れてしまう。
「やめてくれ、俺が何をしたっていうんだ!」
男は地面についた尻でじりじりと後ろに下がりながら、手を前に出してそう叫んだ。
「お主自身が悪いわけではないが、我は善だ。善は悪を裁かねばなるまい?」
男は眉をひそめた。そんな意味の分からない理由で襲われたら自分の命なんかすぐに終ってしまうじゃないか!
少年の容姿とも、低く掠れる声とも、どちらにも全く似合わない口調と、自分に向けられたナイフがおかしいとも怖いとも感じられ、足がガタガタと震えていた。
「悪って……俺は警察にも連れてかれたことねーよ」
「酒と女に溺れ、堕落な生活を送る者を我は悪となす。そして悪は倒さねばなるまい」
少年が哄笑するのに、男は顔を青くさせた。コイツはおかしい。
「我、悪を滅す。ゆえに我あり!」
「だから俺は悪じゃねーっつーのー!」
手を振り上げて男が言うが、少年はナイフを男に向けるのみ。何一つ状況は変わりやしない。
「神妙にせよ、人間」
「うるせーよお! 妻と風呂上がりの一杯くらい許しやがれ!」
このまま逃げられるか。逃げられないのならばどうするか、そればかりが男の頭に浮かんだり消えたりを繰り返していた。
「欲を捨て、修行に励めよ人」
「俺は坊主じゃねえよ!」
意味の分からない少年だ。男は気持ちが悪くなってきて、後ろを向いて脱兎の如く駆け出した。妙な話をしている間に少しだけだが、体力が回復していた。
「こ、こらっ、待たぬか人間!」
少年が後から追ってきて、また追いかけっこ状態へと戻ってしまう。
男はひょいひょいと角を曲がっていく。たしかこの先は――と頭の中の地図を開いて見た男はにやりと笑った。
この少年に見えるものはきっと人間じゃない。こんな恐ろしいものは人間でないに決まっている。そう男は強く思っていたので、自分の次に取る行動が必ず成功すると考えていた。
「あそこなら、きっと」
松原通りに体を滑りこませて、駆ける。一か八か、試してみるしかない。商店の前を走り、漬け物屋の前も通り過ぎる。石碑の前に来た時に、後ろを振り返ってみると少年と目が合ったため、男は前を振り向いた。
「止まらんか人間!」
待てと言われて待つ奴がいないように、止まれと言われて止まるような馬鹿な奴はいない。裂帛の気合を放つおかしな少年などに捕まってたまるものか。
"六道の辻"という文字が刻まれた石碑に手をかけた左手に力を入れて、体を前に押して、強く進む。赤い門を越えてから振り返ると、少年は石碑の前に立ち尽くしていた。それを見た男は心の中で思いっきりガッツポーズをとる。
此処は、あの世とこの世の交わる世界、六波羅。昔は"死の空間"と呼ばれていた。その中で、二人は現在地から最も近い、清水坂の下にある"六道珍皇寺"の門の内側に男、外側に少年がいた。
この寺には、冥界に通じる井戸があるとされている。昼は朝廷、夜は閻魔庁に使える冥官だと噂された『野宰相』が通った井戸だ。
"愛宕の寺(珍皇寺)もうち過ぎぬ
六道の辻とかや
げに恐ろしやこの道は
冥土に通ふなるものを
心ぼそ鳥辺山"
とも謡曲『熊野』の一節にある。
ならば出口は何処にあるのだ、という疑問が残るが、出口は生の六道にある、嵯峨の福生寺に存在していたと言われている。残念ながら、戦後の神社仏閣の陣地奪い取り合戦に負けてしまい、廃寺となってしまったため、現在、出口の井戸は存在していない。
「……くっ」
まだ、安心できない状況だと、男は首筋を流れ落ちる汗を拭いもせずに少年を見つめ続けてる。すると、唇の右端がにぃっと吊り上がった。明らかに人を馬鹿にしている笑みだ。
「お主、何を考えておるのだ。いや、何も考えておらぬのか? これは」
くつくつと少年は可笑しそうに腹を抱えて笑う。体が震えると、ベルトにかけたチェーンが振動して、チャリチャリと音を立てた。その奇妙なハーモニーの曲だけが静かな通りに流れる唯一の音であった。
「何が可笑しい」
「何が可笑しい、とな?」
馬鹿にされた男は眉間に皺を寄せて少年を睨んだが、それも少年を楽しませただけのようだ。
「我は言ったはずだ」
少年が歩を進めて来たのに、男は過剰に反応し、怯んだ。どんどん門へと近づいてくる少年を見、男は腰を抜かしてしまいそうだった。この少年を人間ではないと本気で思い込んでいたからだ。
「我は悪を滅す。ゆえに我ありと」
ついに門を越えてしまった少年を見て、男は力の限り叫んだ。だが、近所の住民は出てくるどころか、窓すら開けない。一体どうなっているんだ! 必死に走っていた時には邪魔だと思う程に人がいたというのに、何故今、此処には人が全くいないんだ!
「何をそんなに驚くことがあるのだ。我は善だ。善が寺に入ることに何か問題があるとでも申すのか、お主は」
「お、お願いだ! 一生酒を飲まない、妻以外の女なんかには目もやらない。だから、だからっ、助けてくれ! 妻が家で待ってるんだ……」
こうなったら土下座だ、涙を見せつけろ。日本人の武器だ、最終兵器だ。これで切り抜けるしかない。そう思い行動した男であったが、
「いや疑いは人間にあり。我に偽りなきものを」
と少年は一人の世界に浸るだけであった。全く、何の意味もない。また自分の方へと歩を進めてくる少年から逃げるために男はへっぴり腰で立ち上がり、よろけながらも走る。
「ふむ……一体何に驚くことがあるのだ。我としてはお主が入れていることの方が不思議であるのだぞ」
少年は顎をさすった後、ゆっくりと歩いて追ってくる。その耳に、カラーンカラーンという澄んだ鐘の音が入ってきた。
「まあ、ここはちぃっと変わった場所であるからの。入れても不思議ではあらぬことにしておいてやるか」
古来より、遠くは十萬億土の冥土まで響き渡り、亡者がその響きに応じ、この世に呼び寄せられるという噂がある"お迎え鐘"の音を聞きながら少年は歩を進める。