+ 此れはこの世のことならず +


「一体、一体何なんだ、アイツは!」
 完全に少年を恐れている男は本堂に向かって走っていた。早くしないと、自分が殺されるということに、男は焦っていた。
 あんな今日初めて会った不良気取りのガキにナイフ持って追いかけられるようなことした覚えはない。
「くそっ、くそっ、くそっ」
 優子の笑顔が脳裏に浮かんでくる。帰りたい。優子の所に、帰りたい。
 男の目に悔しさで涙が滲んできた。走っている男の後ろには少年が歩いて追ってきており、逃げられない。体力がなくなってしまった時点で、男の人生はお終いになるだろう。
「なんとか……」
 なんとかできないかと男は必至になって頭の中で考える。
「む? やっと諦めたか」
 ピタリと動きを止めた男を見、少年は良い判断だと近付いてくる。
「誰が諦めるか」
 だが、男は少年の顔が見えるか見えないかの微妙な地点でまた走り始めた。
「なんと体力の無駄遣いをする奴なのだ。まったく、我から逃げることなど不可能だというに」
 ふうと少年は息を吐いたが、男を滅すために足を動かすことに決めた。それを見た男は、前を睨みつけた。
「あそこに、あそこに行けば!」
 男は生きるために少年を後ろにつけていた。この化け物のような奇妙な少年をどうにかするために男は連れていていた。
 細長い白いもの――三界萬霊供養塔――が男の目に映った。本堂だ!男はその姿を見た時、ほっと息をついて笑う。男は本堂の裏に回り、さらに奥に行こうとしたが、何かに躓き、その場にこけた。
「あった……」
 そこにぽつんとある物をすがるように見つめた。
 小野篁の持仏を祀る竹林大明神の祠に足を引っかけた男であったが、男が見つめているものはそれではない。
「篁様、どうかお助けください、哀れな子羊を! 私めを!」
 草むしりがされていないのか、雑草が斑に生えた地面に男はがばりと額をつけ、頭の上に合わせた手を乗せた。自分が足に引っかけた物が何かも気付いていないからこそとれる行動なのだろう。
「何をしておるのだ、お主は」
 少年の呆れた声が聞こえてきた男は膝をがくがくと震わせながら立ち上がった。
「お前を倒して俺は優子のとこに帰る!」
「ほう。我を倒すと申すか、人間」
 へっぴり腰ながらも突進してきた男を見、少年は笑んだ。
「よかろう、相手をしてやるゆえ、向かってくるがよい!」
 大声を放ち笑う少年の繰り出す拳をすんでのところで避け、男は少年の腰にしがみつく。そして、唸り声と共に体を地面から浮かし、祠の傍にある、男が見つめていた井戸へとだだっと走り、竹で出来た蓋を突き破り、少年を井戸の中へ叩き落とそうとした。その時、
「ぶはあっ!」
 ガパン、と井戸を覆う蓋が浮き上がった。
「……へ?」
 両方共がそれに呆然として見つめていると、井戸の中から人の頭が出てくる。
「うわあああっ、な、何だあ?! 」
 男がそれに顔をひきつらせると、少年はその隙をついて男の胸を押し、離れる。
「ったく、出口が封じられているからって入口を逆流させる奴がいるかよ」
 白い手が、井戸のふちにぺたんとついた。まるで、ホラー映画の一シーンのような情景に、男は口をぱくぱくとさせる。
「むむっ、地獄から鬼でもやってきたかっ?」
 腕を組み、口を一文字に結んだ少年の姿を見、やっぱりコイツは普通じゃない、と男はその場に座り込んでしまった。
「もしこの鬼がなかなかの腕前を持つ奴であったら……ふむう、困ったな。全力で戦いたくなるではないか」
 などと不穏なことを言う少年であったが、ぽんと軽く手を打ち、
「ならばお主から成敗して差し上げよう」
 と軽快に笑う。冗談じゃない。
「覚悟せよ!」
 少年が猛然と襲い掛かってくるのに、男が大音量の悲鳴を上げた。
「誰か、助けてくれ!」
 涙の滲む声を出すと、視界が真っ赤に染まった。
「なっ!」
 何事かと思い、男が顔をあげると、自分と少年との間に、珍妙な柄の着物を身に着けた人が立っていた。
「大丈夫か」
 腰までの艶やかな黒檀色の髪は高く結い上げており、サイドを顎の下で切りそろえている。紫水晶色の瞳は色素が薄く、その目に射止められた男は驚きに目を見開かせた。肌は陶器のように白く滑らかで、鼻梁は高く華奢なラインを描いており、薄い唇は紅を刷いたように赤い。男とも女ともつかない、不思議な色気を持っている。
 男に向かって、手が伸ばされる。近づいてくる赤く染められた指先が男の目に焼き付いて離れなくなる。自分の肩に手が置かれたと思ったら、体が急にふうっと軽くなった。まるで生まれ変わったかのように良い気分だ。
「酷いことをするな」
「ほう。お主、我に歯向かうつもりか?」
「血気盛んな奴だなあ。そんなつもりはないから、ちょっと落ち着けよ」
 何で俺がこんなことしなくちゃいけないんだって思っても仕方がないよなあ、と考えつつ男を背に庇っている者――蓮珠――は少年に向かって手の平を見せた。
「我に歯向かう者に会うのは久しぶりだ。存分にお相手致そうではないか!」
 人の話を聞いていないのか。一体どういう思考回路をしているのか、わざとすぎるほどに相手の意見を無視し、少年は大きく口を開けて笑いながら蓮珠に突撃をしてくる。
「逃げろ!」
 男の背をどんと押し、少年の体を自分の体で食い止める。そのまま突き飛ばされそうになるのを我慢し、
「早くしろ、馬鹿!」
 呆然として座り込んでいる男を怒鳴りつけると、ひいぃっ、と情けない声を上げて男はやっと二人から離れてくれた。
「何故逃すのだ。あれは悪。滅さなければいけぬものよ」
「悪って。ただの人間だろ」
「お主の目は節穴か! あれは悪だ、欲に溺れたこの世の亡者であるぞ」
 指を差して、唾を飛ばして抗議する相手を半眼で見ていた蓮珠は短くため息を吐いた。
「あいつに憑いていたものは祓った。だからもう滅さなくても」
「我、悪を滅す! ゆえに我あり!」
 力任せの一発が左頬にぶつかり、蓮珠は軽くふっ跳び、井戸に腰をぶつける。
「悪を滅すのは我の仕事、我のなすべき最も大事なことよ。それを貴様ごときが邪魔をするとは許されぬことぞ。その罪しかと悔いて業を身に受けよ!」
「ふざけやがって」
「ふざけてなどおらん」
 井戸に手をかけて起き上がった蓮珠に近づき、拳を突き出す。蓮珠はそれをしゃがむことで避け、相手の足を蹴り、バランスを崩した相手の腕を掴むことで引き倒す。
 少年は舌打ちをし、手に持っているナイフを無造作に動かし、蓮珠の顔を切ろうとしたが、それも回避される。
「悪を滅す、貴様も滅す、全てを滅す」
 単調な動きで自分に向かってくる相手の両拳を見、蓮珠は唇を開いた。
「お前、善って顔してないって」
 それを聞いた少年のこめかみにビキリと青筋が立つ。
「我は善である。失礼なことをぬかすな!」
「失礼なことだなんて。俺は思ったことを口に出しただけに御座います」
 へらりと笑っておじぎをすると少年の顔がかーっと赤くなっていく。頭の上から湯気が出そうだ。
「貴様ぁ!」
 少年がナイフを放りだし、腰に差していた物を手に取る。
「剣?」
 蓮珠が眉をひそめる。それには、柄の部分にぐるりと何かが巻きついていた。とぐろを巻いた蛇ではなく、漆黒の龍――倶利伽羅くりから――がついていた剣だ。
「え、あ、うそっ。く、倶利伽羅剣ーっ?」

***

「蓮珠、上に不動明王を探しに行ってはきてもらえぬか」
「不動……って、泰広王のとこの暴れん坊?」
「そうじゃ」
 杓で自分の肩をトントンと叩く閻魔王の前にだらしなく座り込んだ蓮珠が首を振る。
「なんで俺が別の庁の奴の面倒見なきゃいけないんだよ」
 そんなの嫌だね、とパタパタと手を振ると閻魔王はわざとらしくため息を吐き、肩をすぼめた。
「そう言われてものう。わしや他の王は亡者の相手をせねばならんのじゃ。元々の仕事はこちらじゃろうに……引き受けてくれぬのか?」
「うん!」
 深く深く頷いたら、閻魔王は苦笑した。
「……俺がさ、全部面倒見るわけにはいかないんだよ。俺には何も出来ない、何も……」
「しかし、蓮珠が向こうてくれねばわしだけではなく、その人間もさらに苦しむことになるのじゃよ。蓮珠が上で人の罪を見ていてくれるからこそ、わしは迷わずに自分の子孫を裁くことができるのじゃ」
「俺だって、それは一緒だ。お前が此処にいてくれるから、俺はまた人に出逢える」
 ほうと微笑むと、閻魔王が手を伸ばしてくる。髪を撫でる手が優しくて、あんまりにも心地良いものだから、そのままされるがままにされておく。
「わしと其方は、同じじゃ。……たとえ誰かが傷つけたとて、わしは永遠に此処におる。苦しくなればいつでもわしが傍におる」
人間は二つの心を持っている。それは、簡単に言うと、善と悪の心だ。だけど、俺や閻魔王はそうとはいかない。俺は存在が存在だから悪の心を持っていてはいけないし、閻魔王は善の心を持っているが、持ちすぎてはいけない。なぜなら、人を裁くという仕事をする閻魔王がその心を持ちすぎると、優しさ故に自分を殺してしまう可能性が出てくるからだ。
「解っている。俺が帰ってくるのはいつだってお前のところだ」
 最初に死んだ人間、それが俺の目の前にいる大きな子ども。俺が、一番最初に胸の内に抱いた愛しい子ども。
「じゃったら、行ってくれんかの。上に行く力を持った者は少ないのじゃ。わしには蓮珠しかおらんのじゃよ」
 短く息を吐き出すと、蓮珠は体勢を正した。
「よく言うよ。確かに上に上がれる奴は少ないけど、俺以外にもいるじゃないか」
「例えば、篁」
「は?」
「篁などに行かせれば良い、ということかの?」
 ピクリと体を震わせた蓮珠が見ると、閻魔王はにまりと笑った。人の反応を楽しんでいる顔だ、これは。
「そこで何故あれを出す。あれはすでにこちらの者だろ。上に行くにはあれの体に負担が掛かる」
 ふん、と蓮珠がそっぽを向くと閻魔王はくふくふと笑い声を立てる。
「随分と気に入っておるのだな」
「あれは俺を他と同じように扱うし、気を使わなくてもいいから楽なだけだ」
 ふむ、と閻魔王が息に似た声を出した。
「人を信じることはまだ出来んか?」
「そんな簡単に出来たらとっくの昔に治っているさ」
 蓮珠がそう言うと、閻魔王は苦笑して、
「ここは居心地が良いか?」
 と訊いた。
「ああ、いいよ! ありがとうなっ」
 笑って返すと、閻魔王も微笑む。
「そうか、それは良かった」
***

「なっ、何でそれ……!」
「お主、この剣が何か知っておるのか?」
 指差しながら口をぱくぱくと開閉させていると、少年がにたりと笑んだ。
「何って、倶利伽羅剣だろ? 貧瞋痴の三毒を破る智恵の利剣。不動明王の持っている……」
 蓮珠が言うと、少年はほお、と感嘆の声を上げた。
「まさかこの時代に知っておる者がおるとは思わなんだ」
 ふうむと言われるが、こちらとしてはそんなことは当たり前だ。まずこの時代っていうか上に存在しているものじゃないし、
「不動明王」
 目の前の奴を探していたのだから。
 少年は蓮珠への興味がさらに湧いたようで、剣を前にやり、顔を険しくさせる。
「我を誰か見破っておったか! ならば神妙に成仏されい!」
「何でそうなんだよ!」
 があっと蓮珠は腕を振り上げて抗議した。ここまでくると、ただの戦闘好きではおさまらない。ただの馬鹿じゃないか、と舌打ちをした。
「ではゆくぞ!」
「来るな」
 と言ったところで通じる相手ではない。蓮珠は迫りくる相手を見、髪をかき乱し、地団駄を踏んだ。
「あ――――――っ、もう!」
「覚悟!」
 腕を高く上げ、振り下ろすのを見、逃げられないということを蓮珠は覚悟した。
「面倒臭い……けど、仕方ないか」
 振り下りてくる剣を半歩ずらすことによって避け、右手を背後にやる。
「むむっ」
 右手の周りが光り、細長く美しいシルエットの金の錫杖を具現する。少年が渾身の力で横薙ぎにしてくる剣をその錫杖で受けると、カァーンと金属音が耳に響いた。
「よっ、と」
 錫杖を素早く持ち直し、ぐるりと時計回りに回すことで剣を捌き、相手の首を強く打つ。打たれたほうの少年がまた剣を腹目がけて突き出してくるが、それは避け、逆に少年の腹に膝を食い込ませる。
「ぐうぅ……!」
 止めとばかりに頬を固く握りしめた拳で殴りつけると、少年のゆるんだ手から剣がカランと落ち、動きがやっと止まった。蓮珠は錫杖を消し、少年の頬を殴った手を押さえていたが、視線に気づくと、猛然と面を上げた。
「殴らせるなよ! 痛いだろうがっ」
「ほ?」
 言うであろうと考えていたことと見当違いのことを言われた少年は目をきょとんとさせるが、蓮珠はそんな少年の様子を全く気にもせず、手にふーふーと息を吹きかけている。
「少しは人の話を聞け! だから嫌だったんだよ、人間も、暴れるばかりの馬鹿の相手も!」
 一気に捲くし立てたと思ったら、今度はぜえはあと息を吐く。忙しい奴だ。少年はそれをぼーっと見ていたが、すぐにはっとし、大口を開けて顔に似合わぬ笑い声を出した。
「面白い、面白いぞお主! おい、お主は何と言う」
「馬鹿野郎。そんな簡単に名前なんか名乗れるか。訊くな」
「なに、そう言わずに。仮の名でもよいのだ」
 この一直線すぎる馬鹿は、どうせ俺が答えるまでしつこくしつっこく訊き続けるのだろうと判断した蓮珠は半ば呆れながらも口を開く。
「蓮珠だ」
「蓮珠、か。良い名ではないか」
「そりゃ、どーも」
「我の名は火生かしょうという。特別に呼ばせてやっても良いぞ」
「俺は呼ばないからな」
 ツンケンした様子で自分の相手をする蓮珠を見、火生はそっけないのお、お主と口の中でぶつぶつと呟いた。
「ちょっといいか?」
「ん? おお、言うが良い」
 じゃあ遠慮なく、と相手の目を睨み付ける。
「閻魔庁から来た。……今すぐ俺と一緒に地獄に戻れ」
「地獄にとな?」
 その言葉を聞いた火生はむ、と眉をひそめた。
「ああ。泰広王が心配している」
「泰広王が我のことを? それはあらん。ただ、あやつは自分の仕事が増えることのみが心配なのだ!」
「そうだろうな。だけど、そうだとしても、責任持って自分のことだけはしっかりと支えてやれよ」
 ぐ、と火生が黙る。
「帰ると言ってやれれば良いのだが……我にもなさねばならぬことがあるのだ!」
「なさねばならないことって、何だよ」
 ぐしゃりと前髪を掴み、吐き捨てる。しばらく沈黙が二人の間を漂う。
「とりあえず我の家に行かぬか? 此処では落ち着いて話もできん」
「話をちゃんと聞いてくれるんなら、どこにでも行ってやるよ。冗談を聞いていられる状況じゃないんだ」
「こっちだ」
 火生の背中だけを見て蓮珠は歩いていた。周りの店や家、ましてやアパートやマンションなど、目にも入れたくもない。それは、たくさんの人間が住んでいることの証拠になってしまうのだから。そんなおぞましいことをわざわざ自分から理解しようと思いたくはない。
 蓮珠が無言を突き通していたからか、火生も仕方なく黙っている様子であった。やがて、火生の背中が上がっていっていることに気づき、蓮珠は驚いて顔を上げた。
「何をぼうっとしておるのだ、お主は」
 火生が怪訝そうな顔をして少し上から自分を見下していた。
 慌てて蓮珠が周りを見渡すと、ジジ、とはかない声を出す街灯に照らされて、アパートが建っていた。それは、今にも幽霊――蓮珠にとって馴染み深いものたち――がわあわあ笑って飛び出して来てくれそうなほどに古びたアパートであった。
 そのアパートの二階から地面にかかった階段の下から三段目に立った火生が振り返っている。蓮珠が反応を返さないことに苛立ちを感じたのか、彼は鼻を鳴らしてさっさと上へと上がっていく。それにかすかに苦笑するような、自嘲しているようにも見える表情を張り付けながら蓮珠も上がっていく。
 二階の左端にある扉の前にいた火生に近づくと、両手でドアノブを掴んでこじ開け、親指で中を指さされたので、蓮珠は中に入った。

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