+ 混沌より化し者 +


狭い個室の中に荒い息が絶えず籠っていた。普段なら眉間に深い皺を刻ませる、鼻に残る汚物の臭いも、今は気にもなりやしない。  暑さを通り越し、寒さを感じるようになっている体中の毛穴からじわっと嫌な汗が吹き出て止まらない。
「どうなってんだ」
 公園の公衆トイレの真ん中の個室で頭を抱える。額の汗を手の甲でぐいと拭って、便座のふたの上に足を乗せ、割らないように気を付けながら乗り上げた。
 窓を小さく開き、その隙間から外を覗き見る。
「マジでどうなってんだよ……」
***
 そろそろ気絶しようぜ、自分。なあ、もういいだろ十分だろ? もうマジでいいよ、な? 俺は公衆トイレの窓から放心したように外の様子を窺いながらそう願った。夢から覚めようではなく気絶しよう、そう思ったのは自分はこんな意味不明な夢を見るようなおかしな奴ではないと自負しているからだ。だからこれは夢じゃないし、自分はまた頭のおかしくなる出来事とぶつかっちまった、最悪だ、なんて運のない人間なんだと思考を巡らせ、何度目になるか分からないため息を吐いた。
 入った時には鼻がねじ曲がるかと危ぶんだ汚物の臭いにはすでに慣れてしまい、気にならなくなっていた。それに、汗をかいていた体はすっかり冷えてガタガタと震えていた。だが、まだここを出るわけにはいかない。
「イカれてる」
 外に現実的ではありえるはずのない光景が広がっているからだ。しかし、腕にはめている安物の時計を月明かりの下で見てみると針はすでに十二時を過ぎてしまっている。十二時四十九分。もうここに入って軽く四時間は経過していた。
狭いオンボロアパートに一人でいる妹が心配しているだろう。いや、もしかしたら待ちくたびれて寝てしまっているかもしれない。俺は顔をさらに曇らせた。
「しゃーねえ、出るか」
 走って帰る内にもしかしたら離れるかもしれない。もしくはあの妹なら頭のおかしくなった兄をどうにかしてくれるに決まっているから、それを頼ろう。
 ドアノブを握り、簡単に突き破れるだろうペラペラのドアを思いっきり開いて駆け出そうとした。
「ちと待たれい!」
 どこの歌舞伎役者だというような叫び声に、俺はドアを開けた時点で体の動きを止めてしまった。非現実で漫画や小説にしても書き方によっては幼稚な内容だと失笑するような存在だとしか思えない。そんな、いわゆるお化けと呼ばれているものが溢れるほどに集まり、住宅街の中にある小さな公園はバーゲン会場のごとき状態になってしまっている。そのため、その声がどこから聞こえてきたのか判断することが出来ない。
 だが、どうやら自分だけではなくてお化けもその声の人物に気を取られているのか、公衆トイレから出てきたことに一切気づいていないようだ。ならこの隙に逃げるぞと一歩踏み出した瞬間、お化けがぐるりと振り向いた。ぎゃっと叫びたかったが、驚きが過ぎてしまっていて、声が出てきやしない。無数の目が自分を見つめてきている。その異常な様子に、踏み出した足をゆっくり戻そうとした。
「あ……?」
 しかし、足は動こうともせず、小さな石交じりの砂とくっついたまま。
「動けよ」
 叩いて衝撃を与えれば動くようになるのかもしれないが、叩くための手も同じようにその位置を離れようとせず、叶わなかった。
 足元に自分と同じくらいの大きさをした煤がかってくすんだヤカンが近寄ってくる。一つ動けば他のものも動き始め、ガチャガチャバンバンと冷蔵庫やオーブントースターなどの身の周りでよく見る物が走ってきている。
「う、う、うえ……っ」
 豪胆な者ならなんだこれと思うか、笑ってしまえるような光景なのかもしれない。だけど、残念ながら俺はそんなに度胸のある男ではなく、軽いショック状態に陥ってしまっていた。
「お主何をしておる! 早う入らんかあ!」
 また空気をビリリと震わせる怒声が弾け飛んできたので、うろたえたように周りを見渡す。しかし、お化けの壁によって姿はまた見えない。
「蓮珠!」
「今向かっている!」
 先程から何度か上がった少年の声と、もう一人、低めのトーンの声が耳に届いた。
 ジュ、と足のすぐ傍まで来ていたオーブントースターのコードがブチっと千切れた。地面に落ち、まるで蛇のように蠢くそれを切ったものが何か見ようと唯一自由になる目を動かしたら、矢が近くの地面に突き刺さっていた。
「危ないから下がっていて」
 するりと赤いもので視界が覆われ、目を見開く。しなやかな腕が自分の方に伸びてきて、くしゃりと髪を優しく撫ぜられた。
「あ、足、が」
 動かない、と途切れ途切れにだが伝えようとしたら、相手はふわりと笑んだ。
「大丈夫、もう動くよ」
 だから、ちょっとだけここに入っていてな、と肩をぽんぽんと叩かれて、はっと我に返ったように足を動かした。トイレにまた入ることに若干顔を顰めさせないでもなかったが、赤い着物の向こう側には妙な世界が広がっていて気が狂いそうだったので、おとなしく中に納まる。
 それを見届けてから、その人は一度だけ細い溜息を吐いて、錫杖をどこからか取り出した。なんだ、尼さんか。そう思い、ほっとした。ここで銃やら剣やら、ファンタジックなものが飛び出してきたら卒倒するかもしれない、そうギクリとしたからである。
「マジ、どうなってんだ」
 なんだ、尼さんか、じゃない。そこまで混乱してきているのだということに頭を抱えながら蓋の閉まった便座の上に腰かけた。ずっと緊張していたからか、重労働を一日したような疲れを感じていた。扉を閉めるような気力さえ残ってない。それに、もう臭い汚臭を全身で嗅ぐのは嫌だった。
 こっちに向かってこようとするドでかいヤカンに、金属音を派手に立てながら何度も錫杖を叩きつけている姿を見ている内に、うとうととしてきた。妙な赤い着物を着た人の背後にいたわらじを、どこかで見た気のする赤メッシュの入った金髪の少年が真っ二つにしたのを最後に、目を閉じてしまった。
***
「蓮珠!」
 ザァッとわらじを切った火生が振り返った。危機感を感じてしゃがんだ蓮珠を飛び越え、ヤカンの横腹に刀を埋め込む。足で蹴り倒し、埋め込んだ刀をのこぎりのように前後に引いてヤカンを二つに切り分けた。
「あの坊主はどうしたのだ」
「今は厠に入ってもらってる。だけど、それもいつまで耐えられるか分からないぞ!」
「なんと!」
 今ではトイレの花子さんなどの怪談が多く作り出される場だが、元々厠とは、神のいる神聖な場所だ。何故なら、元来出産とは、厠の中で行われていたものだからだ。厠を綺麗に掃除していると元気な子どもが生まれる、といわれている。それゆえ、厠神は産子神と密接な関係を持っており、同一化される。女性や子どもを守る存在だ。昔話の「三枚のお札」などで、坊主にお札を渡してやまんばから逃がしてくれた存在が厠神といえば分かりやすいだろうか。
「それはまずいのお。気にあてられでもしたら大変じゃ」
 苦い顔になった火生は無造作に刀を振るい、泥にまみれた白いスニーカーを切り、蓮珠の腕を掴んで立ち上がらせる。
「蓮珠、あの坊主の傍に行けるか?」
 ガタガタと体を揺らして自分のいる方向に向かってくる革張りの椅子に刀を突き立て、跳んできたキンボール用のド派手なショッキングピンク色のゴムボールを足で受け止めた。自分の胸辺りまであるそれを足の裏で止めはしたが、じりじりと押しつぶそうと前進してくる。
 踵が土に埋まり、バランスを崩して倒れてきた火生の体を蓮珠が受け止める。だが、ほぼ体格が変わらない者を受け止めるには力が足りず、二人してひっくり返ってしまった。
 打ち付けた後頭部を押さえながらも、歯を食いしばって蓮珠が先に立ち上がる。火生が手を離してしまったために革張りの椅子に突き刺さったままの刀を見、まだ倒れたままの火生を見、蓮珠は唇を噛み締めた。だが、周りを囲んでいる妖怪の姿を見、下を向く。蓮珠は土をガリリと爪で掻き、指を擦り、拳を強く握りしめた。
「くそっ」
 振り切るように頭を上げ、逃げようとする椅子から刀を抜きだし、目を強く閉じて両断する。低く構え、火生の所まで引き返し、潰そうとのしかかっているボールを頂点から突き刺した。
 足の間に刀が突き刺さった火生はヒヤリとして蓮珠の顔を見上げた。大丈夫か? とでも訊いてくるかと思っていたが、蓮珠は目を細めて唇を弓型にして微笑していた。それに背筋に冷たいものが走るような感じを覚えた火生は手を伸ばした。
「蓮珠!」
 微笑したままゆらりと立ち上がった蓮珠。その刀を持っている方の手を、手の甲の少し上にある硬い骨で打ち付ける。
「あ、え……ごめん、何?」
「お……お主……」
 手を押さえて、きょんと少し間抜けな顔をした蓮珠が見つめ返してきた。先程までの異常な様子を目にしていた火生はその様子に戸惑ってしまう。
「か、可能ならば、あの坊主のところに行ってやれ、と言ったのだ」
 視線を下に落とす火生に蓮珠は首を傾げたが、その目が地面に落ちたままの倶利伽羅剣を見ていることには気づかず、
「できるか?」
 自分の手を強く握り締めているのにふっと相好を崩した。
「……ああ」
 近寄りたくない、触れたくない、と存在を拒む想いを今は隠して力強く頷き、駆けだす。
 前でうろついている器物の妖怪を火生のいる方向へ追いやり、公衆トイレに近づく。ドアが開け放たれたままの個室の中で、青年は便座に俯きがちに座っていた。その頬にそっと触れて何事もなかったことを知り、小さく息を吐き出した。
「蓮珠! お主も中に入っとれ!」
「分かった!」
 青年が入っている所のドアを素早く閉め、隣の個室に駆け込む。薄っぺらいドアを閉めた途端、背中をぐっと圧迫されるような感覚に陥った。
「ん? ……あ、あっつう!」
 体が吹き飛ばされそうな熱風が蓮珠の背中を押していた。
「火生の奴、人間がいるってこと忘れているのか?」
こちらまで焼き尽くされてしまいそうな火の熱さに蓮珠は口の端を動かす。
「やっぱ、同じところに入れば良かったかなあ。……いや、でも狭いしな」
 便器の背後にある壁に手をついて蓮珠はため息をついた。
「蓮珠、もう出てきてもいいぞ」
 ゴンゴンとドアを叩かれ、蓮珠ははいはい、と言いながらドアノブを捻って個室の外に出る。
「全部、燃やしちゃったのか」
「そうだ」
 そこにあったのは、子どもが毎日遊びに通う、普通の公園の姿だった。そこに異質なものがいた、ということの欠片すら焼き尽くされてしまった公園の姿を見、蓮珠は少し顔を下に向けた。
「火で一応浄化はしたが、完全ではないだろう。蓮珠、人が安全に暮らせる場にしてくれ」
 じっと目を見て頼んでくる火生に、蓮珠は
「はーいはい、分かったよ」
 少し面倒くさそうな顔を作って答えた。
***
 着物についた埃を払い、個室の前で腕を組んで立っている火生のすぐ後ろまで歩いていく。
「火生、この子どうしようか」
「……何を迷うことがある?」
 疲れ果てたのか、目を閉じて寝ている青年の姿を見て蓮珠は苦笑した。その顔を見上げた火生が眉の間に小さな皺を作る。
「何を言っておるのだ、お主は。我らが送ってやるしかないだろう」

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