慎重に歩かないとけたたましい音を立てる階段を上がっていると、
「うちに行こう。どうせ火生はいないから」
と先を歩く奴に言われた。
それにおう、と返すとソイツは真っ直ぐに俺の隣、角部屋の鍵を開けて入り込んだ。
「おじゃまします」
入ると、畳の上にちゃぶ台と赤い座布団、数着の服が置かれただけの部屋が目に入る。まるでいつでも出ていけるようにしているような、妙に簡素な部屋だ。
「弟、まだバイトなのか?」
「いや、外回りに出ているだけだ」
コートを脱いでハンガーにかけながら、ソイツは予想できていたことを俺に伝えてきた。
「火生は俺の弟じゃないんだ」
振り向いて俺の方に手を向けてきたので、頭を下げてコートを渡す。
「騙していて悪かったね」
また背中を向けて会話しようとする奴に、俺はため息を吐いてしまう。
「じゃあ、どういう関係なんだ」
「仕事の同僚かな」
「同僚!? 高校生だろ、アイツ。どっかの会社員だったのか?」
親に捨てられた子どもを、コイツが育てている。それならまだ分かる。だけど、同僚。一度も制服を着ているところを見たことがなかったけれど、本人が学生をやっていると言い切っていたから、そう思っていたってのに、同僚。
「いいや、学生でも会社員でもないよ」
「じゃあ何なんだよ……」
「不動明王」
聞いた瞬間、はあ? と言ってしまった。
「だから、不動明王」
繰り返し言われた言葉に、思考がついていけなくなる。不動明王って……あれだよな、仏像だよな。
「お前も仏像なのか?」
「いや、火生も俺も仏像じゃないよ」
座布団をちゃぶ台の前に置いてきたので、そこに座る。
「それで、お前はなんなんだ」
「地蔵菩薩。道端に置かれてある、お地蔵さんだ」
お地蔵さん。お地蔵さんか。……それにしては髪の毛が多いな。お地蔵さんなら頭はつるっつるじゃないとダメだろ。
「俺とアイツは、人を救うために地獄からやってきた」
理解不能だ。あれか? 本を読みすぎておかしくなったのか、コイツ。
「……えーっと、つまり、お前らは人間を救うために地獄からやってきた地蔵菩薩と不動明王! って設定なんだな」
「そうそう。でも、設定じゃあないよ。君は見たんだろう?」
「お化けのことか?」
自分くらいのデカさの生活用品。あれは異常な光景だったから、バッチリ覚えている。
パニックに陥りかけていた俺を助けてくれたのは、
「妙な赤い着物の人、だよな。アンタ」
柔らかい笑みを浮かべていた人だ。赤色の生地に黒で川と鬼、それと細かい金と銀の花が描かれている、派手な着物。腰までの黒い髪に、薄紫の目。どう見たって、あの人は俺の目の前にいるコイツだ。
「そうだよ」
肯定されて、嬉しいような嬉しくないような気持ちになる。出会った状況が状況だった。だから、もう一度会って話をしたらこうなるかもしれない、とは覚悟していた。けれど……こんなトンデモ話を繰り出してくるまでおかしいとは思わなかった。
「あれは、お化けじゃない。付喪神という、器物が変化してなった妖怪だ。最近被害届が多くてね、火生が俺にも退治を手伝えって言い始めてさ。すぐに対処できるように、しばらくはこっちにいることにしたんだ」
一体誰が地獄に被害届を出すっていうんだ。ことごとく意味の分からないことしか話さない奴だ。困ったよなーと同意を求められても、こっちが困る。
「お化けも妖怪も同じようなもんだろ」
そんな細かいところはどうでもいい、と言うと、呆れた顔をされた。話の通じない子どもだ、とでも言いたげな顔を。
「それは違うよ。お化けは人が勝手に物語上で作り上げた創作物でしかない。妖怪は君が生まれるずっと昔からここに住んでいた者たちだ」
話が通じねー。というか、突拍子なさすぎて理解ができねー。
「さっきの女の子は、それの同類だ」
「同類?」
あれと三千院が同じところに分類されるとは思えない。三千院は俺と同じクラスだった奴だ。つまりは、人間だ。人間と道具が同じところに分類されるはずがない。
「あの子は、狐に憑かれている。それも、悪い力を持った狐に」
「狐? 狐って、あれだろ。北海道とかにいるやつだろ?」
嘘だ! と思って言ったら、ぷっと吹き出して笑ってから、
「そうだね」
とニコニコした笑顔で言われた。
「あの狐が何十年も生きて、力を蓄えたものだよ」
「……狐って普通何年生きるんだ?」
「え? そうだね、十年くらいじゃないかな」
「じゃあ、何十年も生きられるはずねーだろ」
よく考えろ、をオブラートに包んで言ってみても、笑顔のままで返してくる。
「だから普通じゃなくなったんだろう」
反応をするから調子に乗るのか、と思い始めた時、薄い紫色の目が細くなった。
「あの子とはいつ知り合ったんだ?」
「こ……高校だから、五年前からだ」
「その頃にはすでにお面をつけていた?」
二年前のこととはいえ、懐かしく思える母校、紺の制服、ダチ。そして、狐のお面。
「つけてた」
「高校時代、今日みたいに人が変わったような言動をとることはあった?」
「なかった」
なかった。三千院は、あのお面さえなければ普通の良い奴だったんだ。
「なら、随分長い間、彼女は自分の中にいる狐と戦ってきていたんだな」
三千院の目には、何か見えていたんだろうか。俺には見えない、俺では信じられない何かが、三千院の世界にはいたんだろうか。
「彼女の中にいる狐を取り出せば、元に戻るよ」
俺には、普通ではないものは理解できない。いや、理解したくても頭が拒否する。
「……あれ、二重人格っていうんじゃないのか」
「彼女は狐が憑いているんだ。現代医学では二重人格と診断される場合もあるけれど、彼女の場合、厳密には少し違う。精神が分離したわけではなく、精神に違うものが入り込んだだけだからね」
「人に狐が憑くなんてこと、ありえないだろ」
「そうかい?」
奴はきょとんと、不思議なものを見るような顔をしてきた。
「君が思っているよりも、世界は憑きものでいっぱいなんだよ」
んなわきゃねーよ、とツッコミたくなる気持ちを抑えて、次の言葉を一応待つ。
「そうだね……うん、もし君が道を歩いているとする。すると、あらビックリ! 風に吹かれて一万円札が飛んできました! さらにビックリ! 偶然君の手の中に滑り込んできました! さあっ、そこで君は何という!?」
「アホか」
「はい、何ていう?」
差し出してきた手の指先をかぷっと噛むと、驚いたのかすぐに自分の胸元に戻した。守るようにもう片方の手で握りしめる。本人にはそういうつもりのない行動だと思う。だと思うけど、なんとなく、こう……もぞもぞするというか、申し訳ない気持ちになる。
「ラッキー」
申し訳ない気持ちを晴らすために、答えると、
「その他には?」
とか言ってきた。
「やったー」
調子乗んな、と思いながら棒読みで言う。すると、相手はにこっと笑った。本当、嫌になるくらい綺麗で似合ってる作り笑いだ。
「他には?」
大げさなまでに深いため息を吐いて、それからお望み通りの答えを口に出してやった。
「ついてた」
「そう! 運がついてた。ついてただ!」
手を叩いて、嬉しそうに嬉しそうに言ってくる。
「人に見えないところで、憑きものはまだ生きている」
「それが、三千院を……」
ありえない話だ。テレビで見るような、陳腐で非現実的なおかしな笑い話。けれど、あの三千院を目の前で見た後では、俺でさえも笑えなかった。
「本当に、元に戻るのか」
なんでか声が震えた。拳を握り合わせたら、ちゃぶ台の向こうから、自称地蔵菩薩がやって来た。
「榊くん」
泣いてもいないのに、俺の頭を抱えてくる。お香? の匂いが鼻に入ってきた。むっともツンとしない、良い匂いだ。思っていたよりも柔らかい感触に、体が動かせなくなる。
「大丈夫、大丈夫。友達は俺が助けるよ」
「……あ、ああ。うん」
前髪を手で払われ、額を合わせられる。
「覚えておいて」
「な、何を」
「もし、君が理解のできない出来事に遭遇したとしたら、必ず俺を呼んで。どんな所にいても、どんな時間だろうと、俺は君の傍に行く。そして、君を普通の日常に戻してみせる」
だから、覚えていてと口が動く。聞いた事もないような音の繋がりが、俺の耳に入って来た。