「お兄ちゃん、はいパン! ちゃんと六枚切りだよ」
「…………サンキュー」
手渡された食パンをカゴに入れ、祭の手を握ると、隣に立っていた宇治がカゴの中を覗き込んだ。
「もう他に買うものはあらへんの?」
「あるか?」
「ないよー」
見下ろして訊くと、祭は首を振った。
「じゃあレジ行くか」
「はーいっ」
手を引いてレジまで行く。暇そうに髪を弄る女性店員が立つカウンターにカゴを置く。
「袋いりません」
「ご協力ありがとうございまーす」
ケツポケットに入れていた黒の長財布から千円札を二枚取り出して、つり銭受けの上に置く。
「千八百円になります。二千円からお預かりしますー」
バーコードを通し終った商品が俺の前に集まる。祭にお釣りを取ってくるように言っておいて、商品を持って空いている台に先に宇治と行く。
「二百円のお返しになります。お確かめくださーい」
「ありがとうございまーす」
店員と同じ調子で返した祭が手を握りしめて俺の所まで駆け寄ってくる。手を出すと、レシートと小銭がのせられた。それを財布の入ってるポケットに突っ込む。そして、最後に牛乳を隙間に入れると、宇治が買い物バックを手に掴んだ。
「……なんだよ」
「僕持つで」
「いーよ、自分で持つし」
と拒否ってみても、宇治はええねんと首を振る。
「タダ飯食わせてもらうお礼」
こんな所で俺が持つ! いや僕が持つ! を大学生がやると目立って仕方がないので、諦めてやる。
「持ちてーなら勝手にしろ」
と言うと、うんっと嬉しそうな声が返ってくる。何が嬉しいんだ、Mかお前は。と思ったが喜ばれたら怖いから言わない。
「帰るぞ」
「うん!」
空いている手にじゃれついてくる祭の手をしっかり握って、スーパーを出る。ぴゅうっと通った風に、祭が小動物みたいに体を震わせた。薄暗くなってきた空が、帰宅を勧めている気がして、俺は足を進めた。
「お兄ちゃん、焼きそばは塩とソース、どっちがいい?」
「塩がいい」
「榊くん、塩焼きそば好きやなあ」
「ソース焼きそばは夏の食いもんだろ」
塩は、なんとなく大人の食い物のような気がする。だから好きだ。だけど、これを言うと子どもっぽい気がするので、もう一つの理由を言っておいた。
「プールサイドや縁日で食べんのが一番美味いよなあ」
宇治の意見に頷く。特にこだわりがあるわけじゃないんだけど、やっぱソースのあのこてっこての味はキーンと冷えたかき氷や喧噪が傍にあってこそ美味さが引き出される。そう俺は思っている。
「じゃあ、塩にするね」
そんなことを話しながら歩いていると、あの公園がある道に繋がる所まで来た。そのことに気づき、思わず緊張した瞬間、背中を冷たい手で、撫で上げられた。ゾッとして振り向いたが、誰もいなかった。
息を吐きながら前を向こうとしたら、
「危ない!」
祭が横からタックルしてきた。潰れた声を出しながらも、胸に抱え込む。祭が止まらずにそのままの勢いで突っ込んでくるから、左隣にいた宇治を壁との間に挟んでしまう。
「な、何だよ。どうした、祭」
後ろの宇治に悪いと言ってから前を見ると、抉れた地面と、赤と青のけばけばしい色をした二つの巨体が目に入ってきた。
「え?」
気合の入っていないパンチパーマ、その中から少しだけ見えている角、やたらと目つきの悪い三白眼、ボロボロのトランクスみたいな服を着た……オ、オヤジ?
「趣味悪ィ」
と呟いた瞬間、赤い肌の方が手に持っていた金棒を振り上げた。祭の肩をしっかり掴み、右に逃げる。トゲトゲのついた金棒は、コンクリートの塀を削った。祭の肩を抱いた手に力が入る。
「あっぶねー……」
「榊くん、後ろ!」
赤い奴の方だけ見て後退していたら、逆方向に逃げた宇治が叫んだ。後ろを見る間もなく、青い奴に背を蹴りつけられる。よろめいて前に一、二歩進むと、今度は金棒で殴られた。
思わず膝をついてしまう。祭が腕から抜け出し、オヤジの足を蹴る。すると、オヤジは唾を吐きながら奇声を出してぶるぶると震えて、小さい祭を蹴りあげた。
「祭ちゃん!」
後ろから走ってきた宇治が祭を抱きとめる。祭を地面に置いてから、金棒で青いオヤジの顔面を殴りつける。その痛々しいありえない光景に顔を背けていると、宇治が祭を抱き上げて戻ってきた。
「榊くん、立てるか?」
オヤジが持っていた金棒を、野球少年みたいに持っている宇治の姿に、背後を見る。何をどうやったのか、昏倒している赤いオヤジに、顔が引き攣ってしまう。
「大丈夫、立てる」
俺が宇治の手を借りて立ち上がると、オヤジも金棒を支えにして立ち上がった。
「う、宇治……アイツ立ち上がったぞ」
指を差して言うと、宇治は俺に祭を渡して、オヤジに向き直る。百八十以上ある宇治は体もデカく、喧嘩ももしかしたら慣れてるのかもしれない。劣ってはいないけれど、勝ってもいない。頭から生えた角といい、服装といい、肌色といい、オヤジはおかしかった。普通、ありえる格好じゃない。それに、狭い通路とはいえ、いつもなら結構人が通るところだ。誰も通らないはずがない。
「逃げるぞ」
祭を片手に抱え直し、宇治がオヤジを相手にするために地面に置いた買物袋の所まで走って行き、持ち上げる。どこで切ったのか、手から血が流れていて、袋に血がついた。
「逃げるぞ、宇治!」
パンチを受け止め、反撃のチャンスを窺っている宇治に声をかけながらその横を通り過ぎる。宇治はえっ!? と叫んだけど、すぐにオヤジを蹴り倒して俺の後を追いかけてくる。
「逃げるて……どこにや、榊くん」
「どっかだ、どっか!」
勿論追っかけてきているオヤジの姿を確認しながら、追いついてきた宇治に叫ぶ。
「このままじゃ誰か巻き込んじまうかもしれねーし、壁とか家とか、壊させられねーだろ!」
もし六十近い大家さんがいたとしたら、巻き込んで怪我をしてしまうかもしれないから、家に帰るわけにはいかない。かといって大通りに出て誰か知らない人を巻き込んでしまうわけにもいかない。
「こ、公園」
「公園?」
「あそこ!」
顎を前に動して、場所を宇治に知らせる。
「あそこぉ!? 何でや!」
いいから! と叫んで、宇治の腕を掴む。そのまま公園の中に駆けこむ。一週間前、俺には理解が出来ないことと出会った場所だ。そして、アイツが助けてくれた、アイツと出会った場所だ。
「榊くん、避けぇ!」
宇治に背を押され、腕の中の祭が怪我しないように力強く抱き締める。
「宇治!」
叫びながら見ると、皮膚を青黒くさせたオヤジを宇治が抑え込んでいた。
「アイツ、何て言ってたっけな……」
頭に、アイツの声が浮かんでくる。
もし、君が理解のできない出来事に遭遇したとしたら、必ず俺を呼んで。どんな所にいても、どんな時間だろうと、俺は君の傍に行く。そして、君を普通の日常に戻してみせる。だから、覚えていて――――。
「榊くん!?」
「オン、カカカ、ビサンマーエイ、ソワカ」
小さい声で呟く。宇治が蹴り飛ばされ、ベンチに体をぶつける。
「オン、カカカ、ビサンマーエイ、ソワカ!」
真っ青なオヤジを見ながら、もう一度強く言うと、目の前に赤が広がった。坊さんが持っている錫杖を足元の土に突き刺した。
「お前たち、何をしている」
前を見えないように塞いでいる赤色が喋った。腰までの黒い髪に、真っ赤な着物。
「アンタ……」
長い黒髪を揺らして、ソイツは振り返った。そして、へらりと笑って、片手を上げる。
「やあ、榊くん」
「本当に、来たのか」
そう言うと、頷いて俺の方に手を伸ばしてきた。触られた瞬間、ふっと体が軽くなった。
「え……?」
今まで背中と手にあった痛みが、全て消えた。その代わり、目の前のコイツの手が血でじわりと滲んでいく。
「なんでお前が……それ」
そう言うと、アイツは苦笑してしゃがみ込む。
「榊くん、動かないで。ここにいて」
血を地面に擦り付けるようにして、俺の周りを囲む。
「何だこれ」
「鬼は人の血を嫌うから、こうしていれば来れないよ」
それだけ言って、立ち上がってオヤジの方を見る。
「さてと、じゃあまあさくっと送り返すことにするか」
淡々とした調子で言いながら、ソイツは錫杖をオヤジに向けた。
「送り返すって」
「勿論、地獄にだ。鬼は地獄での会社員のようなものだからね」
「鬼がサラリーマンかよ!」
「そうそう。だから俺よりも現場監督の方が怖いんじゃないかなーと」
急にあたふたとして、さらに青々しい肌色になってきたオヤジに、ソイツは近づいていく。足が地面に着く度に、黒い穴のようなものが広がっていく。
「人に害を与えるな。そう、何度も教えているはずだ」
後姿しか見えないけれど、きっと今あの紫色の瞳は細められているんだろう。
「地獄で反省してこい」
黒い穴がぶわっと大きくなって、俺の前ギリギリまで接近する。怖いもの見たさで、その中を覗き込むと灰色の細い腕が見えた。
「え……?」
落ち窪んだ目が、こっちを縋るように見ている。ソイツの口が開いて、何かを叫び始める前に、俺は体ごと目を逸らした。
「はい、もう大丈夫だよ。ごめんねー、うちの者が馬鹿やったりして」
ニコニコ笑いながら来るのに、ふっと息が漏れる。どうしてか、コイツだけは異常の中でも落ち着いて見れる。安心してしまう。
「ありがとう、助かった」
と笑いかけそうになった時、チッという大きな舌打ちが公園内に響き渡った。
「相変わらず野暮なことすんなあ。空気読めよ!」
巻き舌がかった調子で怒鳴りかかってきた奴は、俺たちの正面にある街灯の上に立っていた。
「三千院!」
叫んで初めて俺に気付いたのか、三千院は顔をしかめた。
「またお前か。小童」
「やっぱまだ中にいんのかよ」
この一週間で随分変なことにばかり合ってきた。妖怪だとか、鬼だとか、人を乗っ取る狐だとか、おかしなものがオンパレードだった。
その中で唯一俺に関係があったのが、狐。
「三千院の中から出ろよ!」
叫ぶと、狐ははっと嗤った。
「榊くん、絶対にそこから出るなよ」
「出るなって、お前……どうする気なんだ」
三千院に向かって走り出した奴は、後ろを振り返りもせず、
「あの子の中から強制的に出す!」
と叫んだ。
奴も人間離れした運動神経を持っているのか、地面を蹴ってぶわっと跳び上がった。そして、三千院に錫杖を突き出す。
三千院は避け、
「鬱陶しいっつってんだろ!」
思いっきりアイツを蹴飛ばした。
祭の頭を打たないようにして地面に置いて、血で作られた輪の中から抜け出して、落ちてきたのを全身で受け止める。余程力が強かったのか、一緒に吹き飛ばされて、背中を強く打ちつけた。
「ご、ごめん榊くん」
背に触れていた手を離して見ると、血がこべりついている。
「お前……?」
手も、背も、俺の負った怪我を全て。全てコイツが持っている。自然と手を握りしめて立ち上がる。
「悪い、なんか……全部、お前に任せたりして」
三千院は俺の知り合いで、コイツの知り合いじゃない。コイツじゃなくて、俺が、俺が三千院を助けてやらなくちゃいけないんだ。
走って走って、手を伸ばす。
たとえ、どんなに俺が理解できないようなことを言っても、常時お面をつけていようと、三千人は俺の同級生で、恩人だ。ずっと、ずっと、俺はあの時のことが忘れられなかった。三千院が言った言葉、小さい笑い声、薄い青空から降ってきた白い雪、冷えた柔らかい手を、俺は今でも覚えている。
「三千院……っ!」
手を掴んで、自分の方に引っ張って、三千院を背後から力強く抱きしめる。
「離せ!」
「離さねえ!」
激しく暴れる三千院を押さえるために、腕に力を入れる。
「お願いだ、狐を出してくれ!」
「分かった!」
叫ぶと、錫杖を構え直した奴が頷いて走ってくる。
「離せ! 離せえええ!」
手足をバタつかせた三千院の肘が腹に入った。けど、腕は絶対に離さない。トン、と錫杖の先が三千院の胸に当たる。ビクッと体を大きく揺らした後、細かく震えだした。その様子に、錫杖を持っている奴を見る。すると、口紅を塗ったように赤い口が開く。
「もう離しても平気だから、俺の後ろまで来て」
落ち着いた声色で言われて、俺は恐る恐る腕を外した。目の前の三千院は、小さく声を零している。もしかしたら、体外に出されることに、恐怖を感じているのかもしれないし、泣いているのかもしれない。そんなことを思う、悲しい声だ。
後ろまで移動したら、アイツはふっと息を吐いてから、一度腕を引き、三千院の胸を強く錫杖で押した。
「白い狐……」
背中から出てきた、煙のように掻き消えてしまいそうな姿をした真っ白な狐。その赤い目から、ぽろぽろと涙が流れる。
「榊くん?」
それを見ていたら、どうしてコイツが三千院の中に入っていたのか、少し分かったような気持ちになった。孤独か、寂しいか。コイツだって、苦しんでいたんじゃないか。人間の心に付け込むためにやっている行為かもしれない。本当は悲しくも寂しくも苦しくもないのかもしれない。
「来いよ」
三千院は、一度自分を否定したような俺でも助けてくれた。そんな優しい奴だ。俺は、そんな風にはなれないし、優しいか優しくないかというと……多分、優しくない方だ。
「悪さをしない限りは一緒にいてやるから、こっち来い」
空中で小さい子どもみたいに泣く狐に、手を伸ばす。そしたら、きゅうきゅう鳴きながら、俺の方に近づいてくる。
「榊くん。それは悪い狐だ」
「それがどうした」
「君の体内で暴れまわったり、君の体を使って他の人を傷つけるかもしれない。それでも、その子を受け入れられる?」
三千院を受け止めた状態で、俺の様子を見守っていた奴が口を開いた。絶対に駄目だと、拒否をするような感じではないから、確認したいんだろう。
「悪戯をしないようになるまで、シッカリしつける!」
「それは君が理解できる範囲のものじゃないよ」
苦笑いが混じった言葉に、俺は笑顔になった。
「実は俺、理解できないものと暮らすのは慣れてんだ」
途中で止まっている狐に、
「だから、さっさとこっち来い」
と言うと、狐は飛んで来た。
そして、くるくると俺の首の周りを回る。触ろうとしてみたけれど、何か温かい感じがするだけで毛の感触はしなかった。狐は、俺の胸の真ん中からふっと入り込んだ。
「おー?」
マジで入ったと胸辺りを触ってみる。穴が開いたり、肌の色が変化してたりはないみたいで、安心した。
『礼は言わねえからな、小童』
「感謝の気持ちはちゃんと口にしろ。後、俺の名前は榊だから、小童じゃなくてそう呼べ」
と言うと、狐はふんとそっぽを向いた……んだと思う。中にいると姿が見えなくて、よく分からない。
「よし、これはこれでひとまずよしっ。……三千院」
いつの間にか地面に膝立ちになっている奴に一、二歩近寄る。しゃがみこんでいる三千院から、しゃくりあげる音が聞こえる。アイツの胸に顔を埋めて、背をぽんぽんと優しく叩かれていた三千院が、顔を上げた。
「岩蔵くん、迷惑かけてごめんなさい」
三千院のつけているお面の内側から、水が落ちる。狐の赤い目から流れていたものと同じものが。
「怪我ないか?」
ぶっきらぼうに訊くと、三千院は頭を上下させた。
「なら、いーんだよ。別に」
ジーンズで手のひらを擦ってから、三千院に差し出す。
「ほら、立てるか?」
「はい。ありがとうございます」
なんでアイツじゃなくて俺に助けを求めたんだ。そう、訊きたい気持ちはあった。けど、きっとそれはしちゃいけない質問だ。したら、取り返しのつかないことになってしまう。俺は想像の未来に怯えてしまった。
***
「ごめんねー、榊くん」
「いいから、しっかり掴まってろよ」
祭と、ベンチによっかかったまま気絶していた宇治の怪我は、今俺におんぶされてる奴が自分に移して――というか、自分の体に移して?――くれた。けれど、今度は逆にコイツがぶっ倒れた。
「けど……榊くん、よかったの?」
赤い着物の上に何も着ていなくて、寒そうに見えたから俺のコートを上に被せた。俺はまあ、運動してるからそんなに寒くはない。背中に当たる柔らかいものの大きさを考えるのは……今はやめておこう。
「何がだよ」
ぶるぶると頭を振ってから言う。今更何だっていうんだ。
「あの子のこと」
「別に、いーんだよ。昔のことだから」
高校を卒業するまでの三年間の内、三千院に一度も言えなかった言葉は、たった一言だけだ。けれど、俺はそのたった一言を伝えることさえできなかった。
「俺は、アイツの彼氏の友達だからな」
恋愛ってのは、自分の内面を少しでいいから曝け出せる奴が上手くできるもんだ。それをこなすことは、俺にはちょっと難しい。
「榊くんは男前やなあ」
祭を手に抱いた宇治が、にこにこ笑顔で俺にそう言ってくる。
「……おだてても祭はやらねーぞ」
「ええーっ」
完全にもたれかかってきた奴を、背負いなおす。さっきから静かだと思っていたら、どうも寝てるらしい。規則正しい寝息が聞こえてくる。
月と街灯のおかげで薄ら明るい空を見上げる。目を閉じて、寝ている奴が起きないように小さい声で呟く。
「祭と三千院を助けてくれてありがとうな。……蓮珠」
此れはこの世のことならず。なれどこの者、あの世の者ならず。