+ 此れはこの世のことならず +


あえかなるこの世に

「蓮珠、餅はいくつ欲しい」
「二つ。あ、いや三つお願いします」
 春や夏は日向の、秋は夕焼けの匂いのする畳の上に寝転がる。ひんやりと冷たい曙の匂いに身が包まれた。
 冬の暖かさは人に寄り添う温かみだ。そう心の中で呟いたら、自然と頬が緩んできた。
 ジュウ、と醤油が網に垂れる音がして。香ばしい匂いも漂ってくる。
 ああ、美味しそうだ。三つにしてよかった、なんて思っていたら、
「だらけるでない、蓮珠」
 真っ白なお餅を網でふっくらと焼いているたかむーが声をかけてきた。
 それにはいはいと返して、体を起こす。
「あ」
 そうしたら、はらりはらりと華奢な白い花弁が舞い落ちてくる様子が見えた。視線と光景を分かち合うために、裾を引っ張り、相手の名を呼ぶ。
 立ち上がって襖を開け、縁側に出るとちらちらと遊んでと言うようにひっついてくる白い顔をした子どもを眺めていたら、襖に手を添えたたかみーが頭を小突いてきた。
「風邪を引くから中に入れ。雪ならば中からでも観賞できるだろう」
「あ……」
 俺は風邪を引けない、と音を流そうとした唇を手で塞いで。眉間の深い皺を見たら、言ったら拗ねるかなと勝手に判断して出来の悪い生徒みたいにはーいとしぶしぶ出しましたって感じの声を出して室内に戻る。
 また七輪の前に座り込んだたかむーのすぐ後ろに腰を下ろして、背中にそっと寄りかかった。

花の色は 雪にまじりて 見えずとも 香をだに匂へ 人の知るべく   小野篁(古今和歌集/335)

泥中の蓮

「お兄ちゃん、祭節分がしたい」  と七つ下の妹にえらくキラキラした顔で言われたら、スーパーのある一箇所で立ち止まってしまってもおかしくはないような気がする。
 この歳になってまで豆まきって、どうよ? どうなんよそれ、って考えもバリバリ浮かんだ。けど、わざわざ自分から妹の笑顔を曇らせることをするのは兄としてさらにどうなんだよって感じだ。
 結局ふざけた顔して笑う太陽が描かれたスーパーの袋がガサガサいう音を立てながら外に出た俺の頭にふっと浮かんできたのはあの妙な言葉だった。
 そう、100パーセント中99パーセントくらい会いたくないと思う変人が真面目ぶった顔で俺に言った……オン、オンカカカなんとかっていう、妙な言葉の羅列。
「……忘れてーのに」
 覚えている上に一ヶ月に一度くらいは使うようなことになっている自分に嫌気がさした。



 ぱらぱらっと墨色の衣に黄色の殻に守られた実が当たって、落ちる。
「蓮珠」
「はい」
 細長い目で睨み付けられて、何をしていると訊かれた俺は固まるまではいかなかったけど、冷や汗が出てきた。
「なぜ落花生を投げているのだ、貴様は」
「あ、あー……えっと、豆まきしてたんだよ」
 たかむーは、こてりと頭を斜め横に倒した。そっか、たかむーこの時期は大体鬼がわあわあ言ってるもんだから、そっちの対処に追われて俺の所に来れてなかったっけ。
「上での鬼祓いの儀式だよ。こうやって、」
 枡の中に手を入れて、掴んだ落花生をまく。
「鬼はー外、福はー内って言いながらまくんだ」
 外までは小さい声で、今日もきっと廊下の角を曲がったところで警備をしてくれている鬼達に聞こえないようにしながら。
「って、上じゃ言う人多いんだけど、俺はそれは嫌だから、鬼はー内、福も内ー! って、言いながらやってる」
「なぜ落花生でするんだ」
「んー……本当は炒った大豆でするんだけど、なんか勿体なくってさ」
 たかむーの足元に落ちた落花生を手にとって、殻を割る。実を口に入れて、咀嚼する。
「ほら、こういう風に落ちても食べられるしさ」
 いる? ともう一つ拾って言ったら、一応は受け取ってくれた。でも顔がしぶーくなっちゃってるから、まだ機嫌は晴れてなさそうだ。
 投げた落花生を拾って、枡の中に戻してから、閉めていた襖を開ける。
「巻き寿司と鰯があるんだけど、一緒に食べない?」
「巻き寿司?」
 たかむーが少しだけだけど、ぴくっと動いた。
「うん。かんぴょうと胡瓜としいたけと……うなぎと、でんぶと、たかむーの好きな出し巻き卵の入ったの」
 おいで、と袂を軽く指でつかんで引っ張る。折角現場から離せてもらえてるみたいだし、少しくらいは休ませてもいいんじゃないかって、思う。
 畳の上に足を上げたと思ったら、ふっと感覚がなくなった。ぐっと首の後ろ辺りを引っ張られて、声が喉の辺りでつっかえた。指にあった袂のさらりとした感触も消えた俺が感じたのは、後頭部から首にかけての猛烈な痛みだった。
 見覚えのある傷が入った板に、白い靴下。少し上に目線を上げてみたら、案の定、眼鏡をかけた人が俺を少し驚いたような顔で見下ろしていて。
「……榊くん」
 だけど、正直ひっくり返ったままの姿じゃ、これしか言葉が出てこなかった。

「ごめんな、榊くん。流石に立場的にそれは引き受けられない」
「何でも言えっていつも言ってるくせに、言ったらそれかよ」
 俺が何か一言でも口を開けば、や、開かなくても苦笑、苦笑、苦笑の連発だ。もうちょっとでいいから笑えないのか、っつたら黙り込んで、眉を下げて、ごめん。謝れだなんて言ってないんだけどな。
「祭が節分したいって言うもんだから」
「……祭ちゃんが?」
 俺にはそんな態度でも、妹の祭っていうか子どもにだけは別。にこにこ笑顔垂れ流して、砂糖みたいに甘い言葉だけかけて、甘やかせる。
「分かった」  あ、やっぱ子どもからの要望だって知ったら諦めた。
「祭ちゃんから話を聞くよ」
 だから、なんでそうなる。祭がしたいって言ってる、って俺さっき言ったの聞いてなかったのか?
「ただいまーぁ」
 俺が額を押さえている間に妹が帰ってきてしまった。
「祭ちゃん、おかえり」
「蓮珠さん!」
 とたたっと妹がこっちに走ってくる。蓮珠がしゃがんで手を広げたもんだから、そこに笑顔で抱きついていく。
 にこにこ笑顔で頭を撫でながら、
「祭ちゃん、いっしょにお寿司作ろうか」
 とか蓮珠が言い出し始めた。
「うん!」
 そしたら、ぱあっと妹の顔が明るくなった。大体どんな奴にも甘えたりするけど、特に蓮珠にはよく甘えたりベタベタしてるような気がする。
「榊くんも作る?」
「……レポートする」
 かなり素っ気無く言ったつもりだったのに、蓮珠は笑って、じゃあ後で持っていくなって言ってくる。
「あー、祭」
 なんとなく、締まりが悪くて声をかけた。なに? と言った祭がこくりと首を傾げた。
「後で豆まき、しよう。兄ちゃんが鬼やってやるから」
 蓮珠の手を握った妹が、俺の指を小さな手で握ってきて、俺は下を向いた。
「ありがとう、お兄ちゃん」
 きっと、スーパーの袋に入れたままになることになったに違いない、紙で作った鬼のお面が同封された大豆。今年は、やっと開けれそうだと気持ちの悪いことを俺は一人心の中でごちていた。

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