+ 此れはこの世のことならず +


朝ぼらけ

 ぱん、ぱんと小気味のいい音が外からきこえてくる。早くから何だと意識が浮き上がってきた。鼻歌を口ずさみながら廊下をきしませ、私の部屋までやってくる。
「たかむー、朝だぞ!」
 障子を開け放ち、鶏よりもけたたましい声で私を起こす者の顔を見ること。くだらぬようで大事なそれが朝一番の仕事となってしまっている。たとえ私が寝ていようが起きていようが、こうして褥に横になったまま、待つことが。


「たかむー、今日の予定はどうなっていんの?」
「昼前には一区切りつく」
 朝餉を共にしていると、いくらでも自分で変えることができることを訊ねてきた。お前は上司なのだから、私の予定を知らぬはずがないだろう。……まさか、仕事のではなく私の予定を知りたかったのだろうか。
「じゃあ、昼は俺のところで食べないか?」
「……それは、構わんが」
「そっか。良かったー、この前祭ちゃんが作ってくれた料理がさ、驚くほどに美味しくてさあ。たかむーにも食べてみてほしいなーって思って」
 目を細めて、笑う。
「妙なものは食わんぞ」
 こうして自ら誘い、見たことも聞いたこともない妙な料理を覚え、それを私に食べさせようとする。そうし始めたのは、つい最近のことだ。喜ぶべきことなのだろう。
「火生様や酒呑童子様は呼ばないのか」
「へ?」
 喜ぶべきなのだろう。自分の要望を口にすることもせず、横顔を向けられるよりも遥かに良いことなのだから。
「なんで? 呼ばないよ」
「よいのか」
 しかし、それは私が与えたことではない。遠い現世を生きる者が、自分がこの方に何を与えたかも分からず、至極当然のものの如く、分け与えたものだ。
 これは、私では、
「いいんだよ。二人にはいつだって会うことができるんだからさ」
 私では、与えられぬ。
「そうか」
 だが、いずれは私もまた、罪を悔いる時が終わり、生かされる者として上へと行くようになるだろう。生者は短い時を果て、死を迎え、死者は長い時を果て、生を迎える。今にしかない今を生きる私にできることは、ただ、徐々に本来あるべき姿へと戻ってゆこうとするお前を見ることだけだ。私でない私が偶然に見し人を一目見ることができるようにと。

たまさかに我が見し人をいかならむよしをもちてかまた一目見む 「万葉集」柿本人麻呂

夜もすがら

 ふああああ、とでっかく口が開く。あー、ねみぃ。
「何や、榊眠いんか?」
「徹夜でレポートやってた」
 欠伸を連発してたら、前の席でうどんを啜ってた宇治が訊いてきた。それに欠伸をしながら答えたら、宇治はご愁傷様やなあと皮肉っぽい笑顔で返してきやがった。
「レポートて、丸山先生のか?」
 頷くと肩をすくませて、またうどんを啜る作業に戻る。
「お前はもう出したのかよ」
「出したで」
「げ、マジかよ。伊藤は?」
 宇治の隣で大口を開けてカレーをかっこんでいる奴にも一応ふってみると、
「出した。……出しとらんの岩蔵くらいやで」
 絶対にこう返してくる! と予想してたのと同じ答えを返してきた。
「榊はルーズすぎんねん。いっつも前の日の晩にやっとるやろ」
「たまに早い時もある」
 いっつもいっつも遅いわけじゃねーよとぶつくさ呟くと、宇治がちょっと馬鹿にしたよーな顔で薄く笑う。 「たまはたまや。なあ昌紀」
「せや。たまはたまやで岩蔵」
 高校からの付き合いになるこいつ等は容赦のない言葉を俺のした欠伸の数以上に連発してくる。
「ええ加減にせんとまた祭ちゃんに怒られんで」
「怒られても助けたらへんでー」
 しかも、俺の弱点をズバズバ突いてくるから、まいった、完敗だ。少しは勘弁してくれよ。
「せやから、なるべく早うするか、俺らに言うかしいや? お嬢の顔見るついでに手伝いに行ったるから」
 この気兼ねのなさに助けられる分が多いから、一々うっせー! とか、体力を消耗するような言葉を口に出せねーんだけども。
 次からはそうするよ、なんてありえねーことは口に出さずに、いびつな形にしか握れなかった握り飯に齧りついた。

夜のしじま

 二人暮らしの夜は寂しい。静かと表現するよりも、寂しい。
 朝や昼は自分のすぐ隣で軽やかな寝息を立てて眠っている妹がさかんに動いたり、喋るから全くそうとは感じられない。だが、眠ってしまえば部屋の内から発される音はぐんと少なくなる。
 自分と妹、二人分の息をする音と、パチパチと自分がタイピングをする音。それだけだ。
 カーテンの締め切られた窓の外から聞こえてくるのは遠くを走る車の音だけ。連日仕事で大忙しの社会人さえ清らかな顔でぐっすり寝入ってる深夜三時半ちょい。欠伸も今夜の分は品切れしたのか、数十分前から出てきやしない。
「俺もそろそろ店終いするかな」
 とぼやいても明日の一講じ目に教授に納品しなくちゃいけないレポートはまだ推敲の段階にもいっていない。そんなもんだからまだ店は、閉められやしない。

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