弐
「で、一体何の用なんだ?」
そう蓮珠がゆっくり訊ねることが出来たのは、泰広王の庁の裏にある井戸から繋がっている上の世界でだった。約二ヶ月前に火生と出会った場所、生と死の狭間にある六道珍皇寺の井戸の傍。
井戸の縁に手をかけて体を上げながら先に上がってきていた火生に声をかけた。
「我と共に妖怪退治をしてほしいのだ!」
「そうだろうと思っていた」
蓮珠が乾いた笑い声を出すと、火生はや、やや……! と手を前にやり、頭をぶるりと震わせた。
「分かっている。ここしばらく、死者が多いように感じたからな」
「なんと、お主もか!」
「けれど、それと退治とは別だ」
頭を振られ、今回も引き受けてくれるとばかり思っていた火生はいささか目を見開く。しかし、蓮珠の妙なペースに持ち込まれては自分が成さねばならないと思い込んでいるものが、そこで足踏みをしたままの状態で止まってしまうことになりかねない。とにかく面倒臭がることが大好きなのだ、こやつはと火生は手を握り締める。
「心配せずとも平気だ。退治は我がやるからの! 蓮珠にはその後場を清めてほしいのだ」
「清めだけ?」
「うむ。お主が戦いたくなければ我は無理にとはもう言わん。じゃが、場の穢れはそのままにしておくと害が起きてしまうからの。それだけはお主にしてもらいたいのだ」
「害が……」
全ての者達が傷つくことを嫌う蓮珠である。口の中でその言葉を何度も繰り返し呟き、少し顎を引いて考えているような素振りを見せたかと思うと、井戸から離れた。
「分かった、清めだけでいいなら協力しよう」
「おお、悪いのう蓮珠!」
「いや、こっちこそ面倒をかけて悪いな」
見えないと思っている位置で拳を握り直した火生を眺めて蓮珠は苦笑する。
「それで、一体何を滅すつもりなんだ?」
「うむ、最近この地で百鬼夜行が現れるという噂があっての。放っておくと大物を引き寄せてしまうかもしれんのでな、制多迦童子と矜羯羅童子を向かわせたのじゃが、如何せん数が多くて手が回りきらないらしいのじゃ」
「あの子らにか」
不動明王の眷属である八大童子の第七番目と八番目である制多迦童子と矜羯羅童子。火生が蓮珠の部屋で大騒ぎをしていると必ず慌てて入ってきた子どもを思い浮かべて蓮珠はそっかあの子らが頑張ってくれているのかとにこにこと笑う。
「けれど、何でまた百鬼夜行が? 何かがない限り集まらないだろ」
百鬼夜行とは、平安時代によく見られた器物の妖怪のパレードのことだ。宴へと向かうために近場の妖怪が仲良く歩いているだけなのだが、困ったことにその妖怪達は飲食物を奪いながら進むのだ。その飲食物がただのお茶やジュースやお酒、米や饅頭やパンならまだ無害な方なので許せないこともないのだが、それが人間だというのだから、放っておく訳にもいかない。攫われた人は血を飲まれ、肉を食まれてしまうのだから。
「我もそれが引っかかっておっての」
「不安だな」
「何が来ても我が滅してくれようぞ! 安心するが良い!」
下唇に手を当て、目を物憂げに伏せるのを見、火生は蓮珠の背を数度強く叩いた。しかし、蓮珠にじろりと横目で見られ、手を止める。
「乱暴はするな。何にでも理由があるんだ」
「我は乱暴をしているつもりはないぞ」
「お前にしているつもりがなくても相手が傷つけばそれは乱暴になるんだ」
そっと火生の手を両手を掬い上げる。
「お前の炎は明るくて温かい。だけど、火種がない限り、やらなくてはならない絶対的な理由がない限りはその炎を燃やしてはいけないんだ。時に炎は触れるだけで痛みを与え、光で目を眩ませてしまうことがあるものなんだからさ」
全てを包みこむ無限の慈しみを持った手。自分の手を握るその手を見つめていた火生の口が開く。
「お主では、我が滅しの炎を構える理由は理解出来んだろう」
するりと手の間から自分のそれを抜き取り、両手を押し返す。
「我に理由があろうとも、お主はないと言うだろう。我以外にも理由が分かる状態だとしてもお主だけは絶対的な理由などないと言い張るに決まっておる」
「何かを悪だからって、傷つけていいわけないだろう。誰かを傷つけたからって、そいつを傷つけてもいいってことにはならない」
頑固すぎるところのある二人は一度自分にとって理解してはならないことを言われると認めることなどしたくなくなる。たとえ理解してもいいかと思うことがあったとしても、意地を張ってしまうので、その頃には言い出せない立場になってしまっていることになることも少なくはなかった。
「滅ぼして滅ぼされて、それで何が残るんだ。もう傷つけ合う世界を見るのは御免だ!」
「傷つけ合うのではない! 泣くことも怒ることも、愛しさからのものだ。愛おしいと叫べるのも馬鹿と怒鳴れるのも心を許し合っておるからなのだ」
愛しい、貴女が愛しい。愛して、私を愛して。人はそう笑い、泣き、人を傷つけて傷つけられて生きていく。それはどうもいいから、嫌いだからというものだけでは説明しきれぬものだ。愛おしさ故に相手を苦しめてしまう者もいるだろう、焦がれて泣くこともあるだろう。
行き場を無くし、胸の前で薄く指の狭間を開いたまま放られた両手の手首を掴み、
「お主のこの手は何かを愛したことがあるのか」
と睨んだ。
「全てを愛しんでいるという顔で、本当は誰一人として愛してなど、いないのだろう。この手で愛しみに触れたことがお主にはあるのか? 誰かのためにとお主は言うが本当は全て、お主自身のためにやっておるのではないのか」
「そんなこと……俺は」
下げた眉と眉の間に少し皺が入り込み、色素の薄い瞳が大きく開く。そんな表情をした蓮珠が身を引こうとした。だが、手首をつかまれているためにそれは適わず、蓮珠は苦笑してしまう。
「ごめん」
諦めと化して囁き掛けられた言葉に火生は手を離し、頭をポリポリと掻いた。
「大人げなくって悪かった」
へらっと笑って、蓮珠は一人出口の方へと向かって行ってしまう。何もかも声をかけるタイミングを与えられもしなかった火生は慌てて追いかけることになる。
「蓮珠」
「俺達がここでずーっと話していたる間に被害でちゃうかもしれないだろう?」
だから、そろそろ行こうと促すように言ったのに、仕方なしに頷くことにしてしまう。それほどに火生にとって今の蓮珠はよく分からなかった。
「……うむ」
火生が首をぽきりと鳴らした。音が、妙に道に響き、そして二人の耳にも残った。