バタバタと着物の裾を蹴飛ばすように大股で走っていた蓮珠が立ち止まる。急だったものだから、すぐ後ろを走り続けていた火生が止まれず、勢いよくぶつかった。
止まるなら声をかけんかと火生が拳を握って叫ぶが、蓮珠はきょろきょろと周りを見渡しており、それに答えることはしない。
「蓮珠、お主……!」
肩に手を置いて自分の方を向かせようと思ったが、蓮珠が一歩前に進んだため、手が届かなくなってしまう。また伸ばせばまた進む。
「蓮珠、いい加減にせんか!」
焦れた火生が長い髪の毛をつかんで止めようとすると、それでしたたかに左頬を叩かれた。片目を閉じ、眉を寄せた火生が斜め後ろを呆然と見ることになったのに気付いた蓮珠があ……と声を漏らした。
「火生、ごめん。痛かったよな」
二の腕に手をつき顔を覗き込むようにし、頬に蓮珠の手が触れるとさほど痛みを感じていなかった頬から完全に痛みが消えた。された火生はふっと顔を曇らせる。
「生きておる者や、大人が怖いのか」
顔色を失くすかと思われた蓮珠は、
「そんなことないよ」
と微笑を浮かべさせた。
「人から逃げるでない、蓮珠。我には迷いが見えるのだ。導かねばならぬ者たちの迷いがこの眼には見えておるのだ。だから、お主の隠そうとする怯えた心も、全て」
自分を見上げてくる蓮珠の頭に火生がふわっと手を置き、髪の表面を撫でる。哀れむようでも、さげずむようでもない目で。
「お主かて、全てを受け入れられぬことも、あるだろう」
労わるような静けさを持った炎を灯す目で、心の奥まった部分に貼り付けられた嘘で出来た瘡蓋を見つめられた。そういう気分になった蓮珠はずしりと重苦しくなった胸を押さえながら、地べたに座り込んでしまう。
ぱくぱくと口を喘がせる姿に、火生がざっと顔を真っ青にさせた。
「し、しっかりせい、蓮珠」
合わせるように自分も膝を立ててしゃがみ込んだ火生が肩や背中をさすると、蓮珠が切れた息の中から声を絞り出す。
「だ、いじょう……ぶ」
「そのようには見えんのだが」
「なんでもない、平気」
うっすらと汗をかいている蓮珠は、全身から力だ抜けた様子で、明らかに大丈夫だと無理が出来る状態には見えず、火生は首を振った。
「いかん、蓮珠。我には人の迷いが見えると言ったであろう」
「違う! 大丈夫だ、何でもない!」
「何でもないはずはない。お主のその大丈夫や何でもないという言葉は、助けてという言葉と同じ意味ではないのか」
首を振り振り伝えると、蓮珠は顔を上げた。そうして、常に真っ直ぐに物を見る目に1つも揺らぎがないということを確認するような、縋るような色を淡く目に溶かせた。
「そ、うだ」
またくっと下を向いてしまった蓮珠の顔を覗き込むようにする火生のパーカーの胸元をきつく握り締める。
「助……け、て……っ」
喉の奥から血のように滴り落とされた言葉に火生は眉根を寄せ、目を閉じた。
「俺は生きている者が恐ろしくてたまらないんだ」
しばし、沈黙が漂った。しばらくの間、その場で生きているものは沈黙だけであった。じわりじわりと二人の体に冷気がまとわりつく。
「火生」
顔を上げた蓮珠がすっくと立ち上がる。
「ありがとう。でも、もう大丈夫だから」
しゃがんだままの火生の顔から心配そうな色がもだっていないことが分かると、蓮珠はにこっと雰囲気を崩した。
「大丈夫だよ、今は、ちゃんと」
だから早く行こう、と顔から少し離れたところに手を差し出され、火生は訝しげな顔になる。
「けど、まだ此処に来るのは苦しいものがあるから……」
自分の手にのせられたそれをぐっと握り、合図もせずに引っ張りあげる。急に立ち上がらされた火生は驚いて目を見張った後、
「蓮珠、お主、何か一言くらい声をかけんか!」
と怒鳴った。
それを聞いた蓮珠はぶわっと声を立てた笑った。笑って、笑い終わってから目尻にほんの少し溜まった涙を指の背で拭ってから火生の頭に手をやり、髪をぐしゃぐしゃに撫でた。
「これが終わって、地獄に帰ったら全て話すから」
「うむ。一晩だろうが一日だろうが、付き合ってやる故、存分に話すが良い!」